竹久夢二美術館

竹久夢二美術館へ行きました

2012.8.13、よく晴れた月曜日でした

 

夢二と大正時代Ⅲ 

夢二の恋と関東大震災をめぐって

―大正9年~12年を中心に―

という展示内容が気になって足を運びました。

 

 

メトロでふらりと

根津からぽつぽつ歩き夢二美術館へ

途中けっこうな坂道・・・

と思ったら弥生坂でした。

 

 

 

 

【標識の説明】
かつてこのあたり一帯は「向ヶ岡弥生町」といわれていた。元和年間(1615~24)の頃から御三家水戸藩の屋敷(現東大農学部、地震研究所)であった。隣接して、小笠原信濃守の屋敷があり、南隣は加賀藩前だけの屋敷(現東大)であった。明治2年(1869)これらの地は明治政府に公収されて大学用地になった。明治5年(1872)には、この周辺に町○が開かれ、向ヶ岡弥生町と名づけられた。その頃、新しい坂道がつけられ、町の名をとって弥生坂と呼ばれた。明治の新坂で、また坂下に幕府鉄砲組の射撃場があったので鉄砲坂ともいわれた。弥生とは、水戸徳川斉昭候が、文政11年(1828)3月(弥生)にこのあたりの景色を詠んだ歌碑を、屋敷内に建てたからという。


  名にしおふ張るに向ふが岡なれば 
     世にたぐひなき花の影かな
                        徳川 斉昭

 

 

 

 

 

大正100年に当たる2012年の企画展なのだそうで

大正が続いていればいまは大正100年なのだ・・・・

大正元年生まれの人は100歳!なんですね。。

 

この大正という時代の9年~12年にスポットを当てて

夢二の芸術と足跡が辿られています。

 

ふらっと思いついて来たので

なんの前準備もなかったけれど

そういう鑑賞も楽しいものでした。

大正9年に、夢二最愛の女性であった笠井彦乃が

23歳という若さでこの世を去りました。

その前年、病身の彦乃とは面会出来ない日々が続く中で

夢二は20歳年下のモデル・佐々木カ子ヨ(かねよ)に出会います。

夢二は彼女を"お葉"(およう)と名付け

自分好みの装いや仕種を教え込み

いつしか二人は同棲する関係となりました。

 

写真で見るお葉さんは

とてもかわいらしくって妖艶でした

すこし首を傾げた写真が多かったように思います

かしげるって可愛さをアピールするのに用いられます

いまも昔も変わらないんだなと、しみじみ。

 

彼女の妖艶な写真が130枚以上も展示されていました

これを見るだけでも一見の価値がありました

 

 

 

大正12年(1923)9月1日

甚大な被害をもたらした関東大震災が発生しました

夢二は当時暮らしていた東京・渋谷で被災します。

震災の翌日から、変わり果てた東京の街をめぐり

夢二や花菱・耕花は、関東大震災を独自の視点で残しています。

 

それが【東京災難画信】です。

 

我々は共同生活の訓練も得たし

創意(オリジナリティ)ある簡易生活の暗示を得たように思ふ

また自然の中(うち)に大地の母の懐に生活する良い経験も得た

あまり創意(オリジナリティ)のない悪い文化の模倣生活の愚かさを

醒ましてくれた點でもこの災難には意味があった。

「東京災難画信・十二・仲秋名月」より

2011.3.11の東日本大震災を体験した私たちに

この「東京災難画信」が語りかけてくるもの

夢二らのアーティストの目を通じて心を通して

私たちに語りかけてくるもの

それは、時を超えて現在の私たちに必要だと思われる

心の持ちよう

身体の持ちよう

倫理観の持ちよう

そういうものでありました。

 

 

ということで

此処まで来たら・・・

雑司ケ谷霊園へ夢二のお墓参りへ

 

ぶらぶらと

雑司ケ谷霊園から池袋駅まで

なかなかに味わいのあるお散歩でした。